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新しい地図

お疲れ様です。

 

初夏と呼ぶにも早いようなこの時期にも関わらず、暑い日が続きますが皆様は如何お過ごしでしょうか。

 

さて、先日4月30日、インスタグラマー香取慎吾とユーチューバー草彅剛からなるボーカルユニット「SingTuyo(しんつよ)」の第1作、「KISS is my life.」が発表されました。

 

平井堅のカバーかな、と最初思いましたがあれは「KISS OF LIFE」でしたね。英語力が無くいい感じの意訳ができないので直訳しますが、しんつよの方が「私の人生はキス」平井堅の方が「人生のキス」となり、どちらもなかなか具体像が描き難い言葉ですが、「私の人生はキス」と断言される方もいらっしゃるかも知れないので、意味的にはしんつよの方が通じやすいような気がします。「人生のキス」はマジで想像できません。

 

そういえば今期の覇権アニメ「ダーリン・イン・ザ・フランキス」の主題歌は中島美嘉の「KISS OF DEATH」ですね。これは「死の接吻」となりますが、らんまのシャンプーを意識したのでしょうか。

 

そんなことより、僕が「人生で一番最初に名前を知った芸能人は?」という、今までの人生で誰からもされたことのない質問に、それでも一問一答よろしく用意している回答があり、それが「香取慎吾と宇多田ヒカル」です(宇多田ヒカルはFlavor of lifeとkiss&cryという、あー、足せばよかったのに!って感じのニアピンがありますね)。

 

特に香取慎吾については、僕の幼少時、一大センセーションだった「慎吾ママ」の存在によって、僕以外の同世代にも同じことが言える人は何人もいるんじゃないでしょうか。僕も例に漏れず慎吾ママ信者でした。

 

僕の慎吾ママ信者ぶりを表す具体的なエピソードがあります。

 

僕がまだ幼稚園児だった頃、僕が通っていた幼稚園に慎吾ママが訪れたことがあり、園児たちは園庭に集められ、慎吾ママに合わせてみんなで「慎吾ママのおはロック」を歌い、踊りました。

当然、その様子はテレビでも放映され、「ぼくは慎吾ママに、香取慎吾に会った事がある」という記憶を人生の宝物として、数年間過ごしました。

 

その宝物を失ったのは小学校三年生のある日のことでした。久しぶりに母方の実家に訪れた僕は、写真を撮影、収集してはアルバムを作成するという習慣を持った祖父母の家で、自分が慎吾ママと写っている写真を探しました。

イベントの最後の方にクラスごとに慎吾ママと集合写真を撮影した記憶があったので、そのお目当ての写真を探したのですが、結論から言うと「慎吾ママと写っている写真」はありませんでした。

 

さらに細かく言うと、「慎吾ママと写っている写真」はありませんでしたが、探していた「集合写真」に該当する写真はありました。

 

 

ですが、そこに慎吾ママは写っていなかったのです。

 

 

 

 

じゃあ、いったい誰が?

 

 

 

 

 

 

慎吾ママがいるはずのスペースにいたのは

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「たこやきマントマン」でした。

あろうことか、僕は「記憶の捏造」を幼少期に行ってしまっていたのです。

 

正しい歴史と共に事実を整理すると、「たこやきマントマン」という子供向けアニメのワンコーナーに「たこやきネットワーク」というものがあり、それはたこやきマントマンの着ぐるみが全国の幼稚園を周り、園児たちとともに歌って踊る様子を放送するというものでした。

具体的に我が幼稚園に訪れた年月日は覚えていないのですが(そもそも捏造していたので)、「たこやきマントマン」という番組自体が放送されていた期間が1998年の四月から1999年の九月までのことでした。

 

それに対して慎吾ママが「慎吾ママのおはロック」を発表したのが2000年の八月であり、時期的にも純粋に「有り得ないこと」だったのです。

 

恐らく僕は、2000年の時点、即ち「慎吾ママのおはロック」が一大センセーションだった時期に、幼稚園において催し事の際に園児たちで「おはロック」を歌う機会があった事実と、「たこやきマントマン」来訪の事実を脳内でミックスし、一つの新しい記憶として再構築したのです。

 

ですが、実際に歌い踊っていたのは「慎吾ママのおはロック」ではなく「たこやき音頭でパッキュンコ」だったのです。

 

その事件をきっかけに正しい記憶を思い出したので、日常生活に支障はありませんでしたが、僕は幼稚園年長から小学校三年生までの数年間、自信を偽りの記憶で欺いて生活していたことになります。

 

恐ろしいことですが、それくらい僕は香取慎吾という存在に深い執着心を抱いているのです。

 

こんなに深い執着心を持っているので、正直、齢23の現在でも、自身が香取慎吾という個人に認知されないまま一生を終えていく事実にかなり絶望しているほどです。

 

 

現在の香取慎吾は、もはやアイドルという肩書き以上に「それ」であったSMAPの解散、それに伴い草彅剛、稲垣吾郎と共にジャニーズ事務所から離脱、現在はその二人と「新しい地図」というプロジェクトにおいて、リーダー格として以前より多角的にタレント活動を行っています。

 

ジャニーズという大きな後ろ盾を失い、テレビでの活動が大幅に制限された分、他の媒体でアバンギャルドな個人として活動しているのを見ると、テレビで見れなくなったのは寂しいけど、SMAPが解散してからジャニーズ事務所を離脱するまでのしばらくの間、何かの罰の如く毎週のようにバスツアーロケに送り出され、それを虚ろな顔で敢行する慎吾ちゃん、しかもそれが全国放送されているという、ジャニーズ事務所の闇が垣間見えた「あの時期」を視聴者として経験していた僕にとっては喜ばしい限りです。

 

実際に会って話したことはないですが、前述の「あの時期」は香取慎吾ファンにとっては共通認識のようなものなのではないかと思います。

 

 

 

 

ここまでつらつらと香取慎吾愛について語ってきましたが、正直、これは本来するべき話題の助走です。僕が本当に言いたかったのは

 

 

「ユーチューバー系動画についての違和感」です。

 

 

本題なので太字で赤文字にしました。

 

偉そうな書き方をしましたが、正直、この違和感というのも「存在に対する疑念」とか、「どうあるべきか」とかたいそれた話でもなく、ただ純粋におかしいだろ!と思った一点があり、それが慎吾ちゃん(そろそろ慎吾ちゃんと呼ばせてください。これが普段の呼び方なので)によって認識させられたというだけのことです。

 

まずは三点の画像をご覧ください。

(もう違和感は始まっています)

 

これは僕が普段あんまりユーチューバー系の動画を見ないからそう思ってしまうのかもしれませんが、

 

 

「テロップにネットスラングを混ぜるんでないよ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

と思ってしまいました。

 

確かに笑いながら話してはいるのですが、個人的に「w」の使用が許される場面は、完全に文面だけの表現に終始するときであるような気がします。もともと「w」が使用されている文面を口頭で読み上げる時に雰囲気の再現として、笑った調子を使うのは間違っていないのかもしれませんが、発言を文面に起こす時に「w」を用いるのは間違っているような気がしてならないのです。

 

さらに違和感を感じるポイントとして、テロップが三分割されているためなのか、句読点のように「w」を使っている部分もあります。

慎吾ちゃんの発言を括弧内にまとめるなら、「YouTubeの世界をバーン!ぶつけてくるからさ、受け止めきれないよ(笑)」となるはずです。(笑)を「w」と表現するのは百歩譲ってそういうものだとしても「、」をまさか「w」にしてしまうとは!おいおいどうなってんだよと思ってしまいます。

 

 

挙げ句の果てには

 

「いやいや、テロップの位置をいじって『www』が口から飛び出してる風に表現すなよ!!!!!!!!六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)の空也上人立像(くうやじょうにんりつぞう)か!!!!!!!!!!!!」

 

六波羅蜜寺の空也上人立像です。口から出てるのは念仏だそうです。

 

 

挙げ句の果てには「はははははは」という朗らかな笑い声を「wwwwww」という記号に置き換えてしまう始末。しかも下の字幕によって「マジでYouTuberだ」という意味を持った外国語を喋ってるみたいな印象を与えてしまうので、本来の目的も若干おろそかになっています。

 

と、ここまでしょーもない文句を垂れ流してきましたが、動画の表現に文句を言おうとして書き始めたのに、助走の慎吾ちゃんへの熱意がメインコンテンツになってしまいました。

動画の表現の文句も慎吾ちゃんへの愛からくるものみたいになってます(実際気づかなかっただけでそういうことなのかもしれませんが)。

 

言いたいことがあるのに、ひどく寄り道して、結果言いたい事がブレても、その見つけた寄り道が「新しい地図」の一部になるのではないか、といったところでノートパソコンを閉じます。

 

 

そんじゃ、おつかれさんっした